最新 【東京至誠医院創立者・吉岡彌生】記念古写真◆東京女子医科大学◆昔鶏卵紙台紙肖像明治大正昭和戦前戦後美人物吉岡荒太吉岡博人吉岡弥生

最新 【東京至誠医院創立者・吉岡彌生】記念古写真◆東京女子医科大学◆昔鶏卵紙台紙肖像明治大正昭和戦前戦後美人物吉岡荒太吉岡博人吉岡弥生

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カテゴリアンティーク、コレクション印刷物その他状態傷や汚れあり(詳細)◆吉岡 彌生日本の教育者、医師。位階は正五位。勲等は勲二等。東京女医学校・東京女子医学専門学校・東京女子医科大学創立者。東京女医学校校長、東京女子医科大学学頭、至誠会会長などを歴任した。旧姓は鷲山(わしやま)。俗に吉岡弥生(よしおか やよい)とも表記される。東京女子医科大学の前身である東京女医学校、東京女子医学専門学校を創設し、女性医師の養成や医学の教育・研究の振興に尽力した。津田梅子(津田塾大学創立者)、安井てつ(東京女子大学創立者)、鳩山春子(共立女子学園創立者)、跡見花蹊(跡見学園創立者)、下田歌子(実践女子学園創立者)、横井玉子(女子美術大学創立者)などと並ぶ、日本の女子教育の基盤づくりに活躍した女性教育者である。また、日本女医会の会長、教育審議会委員、日本医師会参与、厚生省顧問などの公職も歴任した。遠江国城東郡土方村(現:静岡県掛川市)に、漢方医・鷲山養齋の二女として生まれる[1]。1889年(明治22年)に上京し[1]、済生学舎(現:日本医科大学)に入学した[1]。当時の済生学舎は、入学試験がなく女子も入学できる医術開業試験(現:医師国家試験)のための最も古い私立医学校であった[2]。1892年(明治25年)、内務省医術開業試験に合格し、日本で27人目の女医となる[2]。1895年(明治28年)にドイツ留学を目指して再上京し[2]、昼間は開業をしながら夜はドイツ語を教える私塾・東京至誠学院に通学[2]。同年10月に、同学院院長の吉岡荒太と結婚した[2]。1900年(明治33年)、済生学舎が女性の入学を拒否したことを知り[3]、同年12月5日、日本初の女医養成機関として東京女医学校を設立した[3]。1912年(明治45年)に東京女子医学専門学校に昇格[3]、1920年(大正9年)に文部省指定校となり、卒業生は無試験で医師資格が取れるようになった。1928年(昭和3年)ホノルルで開かれた第1回汎太平洋婦人会議に日本女医会の代表として出席し[4]、1937年(昭和12年)には女性初の内閣教育審議会の委員に任命された[4]。太平洋戦争中、「婦人国策委員第一号」他、愛国婦人会評議員、大日本連合女子青年団長、大日本青年団顧問、大日本婦人会顧問など要職に就き、多数の青年・婦人の戦争協力を指導。空襲後、疎開。戦後、東京に戻り学校の再建に取り組むが、戦争に直接協力させられた国立病院や日赤病院で相次いで労働組合が結成され、東京女子医学専門学校でも教授会をつくることさえ許さなかった吉岡一族の独裁的な専制支配に対して、教授陣が民主化に基づく団結を訴えた[5]。だが、彼らは吉岡弥生によって弾圧され、退職させられてしまった[5]。これに抗議する学生達は、校長吉岡弥生の禁止命令を無視して自治会を結成し、民主化闘争に突入した[5]。教職員の側も弾圧にひるまず、教授等を先頭に組合結成の動きが活発化した[5]。この動きに対して、吉岡弥生は教職員を集めた朝礼の席で「組合の結成を認めるような法律は、私が国会に出て改めてやる」と豪語した[5]。こうした態度に気押されて組合結成の動きも一時下火になったが、全国で盛んになった労働組合運動を受けて、1946年12月に女子医専従業員組合が結成された[5]。組合員は270名で、組織率は70%であった[5]。この組合結成を怒った弥生は、教授数人を首謀者と断定して辞職させた[5]。組合は東京都労働委員会に「首切りは不当労働行為」として提訴し[5]、結局経営側が敗訴し組合が勝利した[5]。弥生はこの闘いの最中、戦争協力に指導的な役割を演じたために公職を追放され、学内から去った[5]。弥生は1947年(昭和22年)から1951年(昭和26年)まで教職追放ならびに公職追放となる[5]。1952年(昭和27年)新制東京女子医科大学の学頭に就任[4]。1955年(昭和30年)危篤に際し、勲四等宝冠章を賜る。しかし、叙勲の知らせで奮起し、奇跡的に回復した。1959年(昭和34年)5月22日、世田谷区の自宅で死去[4]。遺言により遺体は解剖に付された。死後、正五位勲二等瑞宝章を賜る。東京女子医科大学の河田町キャンパスには、吉岡の像が建立されており、吉岡の名を冠した彌生記念講堂が設置されている。また、掛川市の吉岡彌生記念館や東京女子医科大学の吉岡彌生記念室などの施設では、吉岡の資料を収集、展示している。学校法人東京女子医科大学前々理事長吉岡博光は孫。吉岡と同じく土方村出身の東京学芸大学学長鷲山恭彦は、本家筋にあたる。
◆吉岡荒太佐賀県出身。東松浦郡一漁村で代々医業をしていた長男。 19歳の時に医を志して上京、第一高等中学校(後の第一高等学校)に入学したが病気で退学し、独学で内務省の前期開業試験に合格したが、そこへ田舎から弟二人が上京してきたため、三人分の生活費をかせぐため医者を断念し、得意であったドイツ語の塾を開いた。 一方弥生は済生学舎を卒業し女医となったのが22歳。一度、故郷の静岡へ帰り父の下で田舎医者をしていたが、向学心に溢れ更なる勉強をするために再び上京した。 その時の弥生はドイツへの医学修業の夢があり、ドイツ語を学び始める。このドイツ語塾が至誠学院であり校長は吉岡荒太であった。 荒太は無口であったが、弥生とは国家の理想などを論じ合うなど意気投合。弥生が25歳の時、荒太が28歳の時1895(M28)荒太は学院の事務や生活一般を取り仕切っていた弟の松造を通じて弥生に求婚し結婚した。 至誠学院はドイツ語の他に英語、漢文、数学の三課目を加え、高等予備校にし大所帯とした。弥生はドイツ語を学ぶ傍ら学院の事務関係も受け持ち、夜は開業医として患者を観た。 荒太が経営する至誠学院は大掛りになっていくのとは裏腹に赤字は増え続け、弥生も一時医者を辞め経営に努力しり、学院の向かいに借家して、産婦人科の東京至誠医院を開業し収入を補おうとしたが、超人的な労働を余儀なくされていた荒太が、1899(M32)過労に加えて重い糖尿病に倒れてしまった。翌年、やむなく学院を閉鎖することになった。 同時期に弥生が学んだ済生学舎が風紀の乱れを理由に女学生の入学を不許可とし、半年後には在学中の女学生も閉め出す事件がおきた。 女学生に医学への一切の門戸が閉ざされた現状を知った弥生は、一年の療養で健康を取り戻しつつあった荒太に女医学校設立を相談し、すぐさま賛成を得、資金さえない状況で、無謀とも言える大事業に吉岡夫婦は果敢に挑み、産婦人科の開業をしていた至誠医院の一室6畳一間に机と椅子を置いて教室とし、二人は1900(M33)日本で最初の女医養成機関である東京女医学校(東京女子医科大学)を創設した。弥生が校長となる。 荒太は物理と化学を教え、弥生は生理と解剖を教えた。最初の入学者は4人であった。翌年弥生は妊娠し、長男の博人(同墓)が誕生するが、その際、弥生自身のお産を教材とした。 徐々に生徒が増え、学校は全寮制とし荒太が舎監として住み込み、生徒たちから「大(おお)先生」と呼ばれしたわれた。 夫婦の真剣さと努力が報われ、1904に私立学校としての認可を受け、1908には弥生が校長認可を受けるまでとなった。日露戦争の戦勝によって企業ブームと社会思想の台頭が女子の高等教育を広め、女子の職業として女医を認識させたことで生徒数が二百人を超えるまでとなった。 また第一次世界大戦で漁夫の利を得た日本経済は異常な好景気に見舞われ、企業の要求によって多くの分野に婦人が進出するようになり「職業婦人」が増大した。 その際、女医は職業婦人のトップに位置付けられ、学校への志願者を増加させた。これらの好景気で今まで排他的に文部省が認知していなかった女子医学学校が女子医専昇格を得、国家が認める学校とまでなった。学校の発展の裏で尽力していたが、糖尿病悪化のため逝去。享年54歳。以後は亡き荒太の志を胸に、弥生と長男の博人は学校を大きく発展させていった。
◆吉岡博人東京出身。吉岡荒太、吉岡彌生の長男。東京帝国大学卒業。両親を助けながらも、東京牛込保健所長などにも務めた。 1951(S26)両親が設立した東京女子医学専門学校が東京女子医科大学に昇格したの機に教授に就任。衛生学者として活動し、'65 学長に就任した。日本衛生学会会長、日本私立医大協会会長、日本心臓血圧研究振興会理事長などをつとめた。享年88歳。

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